これぞ史上最低最悪の「政治パフォーマンス」である。
死刑を自身の政治活動に利用する。かつてここまで愚劣な政治家が居ただろうか。己の野心のため、己の狂った信条のため、他人の命をオモチャにする。
死刑廃止という己の主張を実現させるためには、無関係な人間の死までも利用して恥じない。これほどの人権無視があるだろうか。
執行命令に署名しない限り、死刑の執行は出来ない。
死刑の執行をしない限り、それに「立ち会う」ことは出来ない。
理由の如何を問わず、「立ち会った」という事実は、次の法相を縛る。
「立ち会う」ことが責任なら、それは民間の裁判員まで影響を与える。
死刑判決に関わる全ての人間に、「責任論」が生じる。
従って、より一層「死刑判決は出しにくく」なる。
記事の主張の通りである。
刑場を報道機関に公開する。一度報道されれば、その報道写真は永久に影響力を持つ。それは法相が代わろうと、政権が代わろうと、未来永劫「初公開! これが死刑執行の現場だ!」との派手な見出しと共に語り継がれ、消えることは無い。消せる術は無い。
それが大衆の感情を刺激する。気弱な人を怯えさせる。恐い、悲惨、可哀想等々、死刑に否定的な感情のみが誘発される。我々一般国民の「見なくてよい権利・見たくない権利」「知らなくてよい権利・知りたくない権利」が侵害される。
我々は「犯罪者と関わり合いたくない」のである。自分が被害者になることは勿論として、裁判員に選ばれることも、取り調べの手法や、ましてや刑場の様子など見たくも聞きたくもないのである。
そんな問題とは関わらず、背を向けて生きる権利が、法を犯さず正直に生きてきた人間にはある。それが「自らは決して犯罪を犯すまい」という自制心、抑止力に直結している。警察の御世話にならず、裁判所の門を潜ることなく、生涯を平穏無事に暮らしたいと念願している人間こそ多数派なのである。
千葉は「最期の呪い」の形で、刑場を公開し、死刑に関する情報を公開することによって、国民の死刑に対する嫌悪感をいや増そうと企てているのである。
菅政権が九月以降も続くか否かは分からない。しかし、頭が代わっても代わらなくても、千葉の任期は次の代表選までであろう。残る一ヶ月で、史上最悪の「置き土産」をしようと企てているのである。
「刑場の公開」を甘く見てはならない。
目的のためには手段を選ばない人間を侮ってはならない。
自らの主張のために、火炎瓶を投げていた人間である。
当たれば人が死ぬ凶器を、平然と投げていた人間である。
我々には、犯罪の全貌を知る権利はある。取り調べの手法が適切か否かを論じ、その改善を要求する権利もある。しかし、死刑の執行、或いはその周辺情報に関しては、「見せろ・見せない」といった下品な遣り取りの中に投げ込む問題ではないことを、今一度確認すべきなのである。さもなくば、妖怪の呪いに雁字搦めにされてしまう。
この上ない矛盾を含んだ死刑廃止主義者の死刑強行。
落選者としての執行署名。
民間人としての死刑執行。
まさに政治的パフォーマンスとしての死刑執行である。
しかしながら、こうした様々な悪行を遙かに超えるレベルで、死刑に関する情報公開、「刑場の公開」は議論されるべき大問題であり、今後の動向を徹底的に注視せねばならぬ。妖怪大臣共々「赤い法務官僚達」をも監視して、静かで穏やかな日本を取り戻さねばならぬ。
誰の筋書きかは知らないが、今回千葉が起こした事件は、無署名法相として歴史に名を刻むことを避けた「過去への弁明」でも、「単なる保身」でもなく、未来に向けて「禍根を残すため」に打って出た積極的悪行であり、意図的大罪である。
千葉は死んでも、写真は残る。記事は残る。
それを悪用する者は、日増しに増える。
世界的規模で存在する死刑廃止論者のネットワークは、日本人の論理ではなく、感情に訴え続けるだろう。
それをどれだけ跳ね返せるか。凶悪犯罪の全貌が明らかになる度に、死刑存続の支持が高まるというのではなく、国の在り方の根本的問題として、冷静に論理的に、死刑問題の本質を国民が論じ、自らの決意としていく必要がある。
国民の「知りたくない権利」を侵す「刑場公開」に断固反対する!
死刑廃止主義者の死刑利用を断固糾弾する!
千葉景子の「刑場公開 → 死刑廃止」戦略を侮るな!:夕刻の備忘録
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